第32回 研究奨励賞(2020年度)[受賞者] 楠 和樹

[受賞者] 楠 和樹
[受賞対象業績]『アフリカ・サバンナの〈現在史〉──人類学がみたケニア牧畜民の統治と抵抗の系譜』昭和堂、2019年。
[選考委員]
委員長:梅屋 潔
委員:清水 貴夫、津田 みわ、溝辺 泰雄

講評

ケニア北部の乾燥地帯では、数千年にわたって牧畜民たちがウシやラクダなど群居性の動物を飼いながら暮らしてきている。本書は、植民地統治期以降の北部ケニアにおいて政府が、とくに著者のいう「牧畜集合体(牧畜民とその家畜)の統治」に関して行ってきた介入の変遷を公文書および二次文献を参照して丹念に跡付けようとした優れた著作である。学際を志向し、ことに通時/共時それぞれの分析の限界を乗り越えようと「現在史」という視座を採用した点に、筆者の意欲と自負をみてとることができる。

牧畜民が家畜を飼う、というこれまでの認識に追随せず、人間と動物、両者ともに「主体性」を付与している点が本書の特徴として留意されるべき最初の点であろう。両者ともに国家などの権力体制のなかでは、介入の客体となる。筆者は、その「牧畜集合体(牧畜民とその家畜)の統治」の歴史を、ケニアという一国の宗主国からの独立による政治体制の転換を断絶としてとらえるのではなく、連続する統治と抵抗の連鎖として描き出そうとしている。そのために国家および地方レベルの政治・行政過程を人と制度の両面からたどりなおし、ケニアの植民地支配と独立後の歴史を再構成しようとした。通時と共時の双方の分析を目指し、人類学に軸足を置きつつ歴史学上の重要な示唆を含んだ、学際的な成果ともいえる。

ディシプリンをまたいで、「統治」を描こうというこの視点は、統治の際に用いられる知識や技術が、ケニアやイギリスなど国の範囲を超えたネットワークを形成している、というアクター/ネットワークの発想や世界観であり、認識論にもとづいている。結果的に、これまで人類学でこの類似テーマでは焦点化されることの多かった「原住民」だけではなく、技術の一義的なアクターとしての植民地行政官をも叙述の中心にすえることとなり、アフリカ人住民にとっての植民地支配の実態に新たな光を当てることになった。

ここで筆者が試みた「牧畜集合体(牧畜民とその家畜)の統治」という切り口は、植民地期から開発期を経てポスト植民地期に至る、現代の遊牧民社会の「現在史」を研究するうえで、大変意義深いものである。この枠組みは「現在史」だけでなく、現在の政治や社会を捉える上でも有用な枠組みであろう。今後、この分野における基礎文献の一つとなることが予想される完成度の高い作品である。

野心的な本書には、当然ながら、今後の期待も大きいだけに、指摘できる課題も多い。筆者は「統治」を「支配」の一形態としてとらえ、統治を「他者のふるまいを形成し、導き、方向づけるすべての営み」とする。本書中に記載される「統治」にはこの枠組みのなかに必ずしも当てはまらないものもありそうである。また、統治する側とされる側にとっての「統治」は、様々な時代と環境のなかにおいて同じ意味をもっていたのかどうかも疑ってみる必要もある。エージェントとペーシェントの関係も、条件がそろえば、容易に入れ替わるのである。

幅広い議論をカバーしたことの代償として、重要な論考を簡略に不十分に紹介するだけで終わっている部分もあり、一見すると必ずしも本書の主旨を先行研究のなかにうまく位置付けられていないように見える箇所もある。筆者のなかでは必然のつながりも、すべての読者にとってそうであるとは限らない。対読者との関係性により意識的になると、本書はより読みやすく、多くの読者に受け入れられるものになる可能性が増すはずである。論じるテーマによっては、もっと現在史というコンセプトが有効なものとなるような論じ方もあっただろう。本書では相対的に抑制されている、植民地行政に多大な影響を持ったはずの国家非常事態宣言期への目配りも期待される。ことに植民地期のハイランドにおける反植民地主義運動と北ケニア行政との連関(あるいは非連関)への考察は、今後より一層展開可能なトピックだろう。「アフリカ・サバンナの<現在史>」という表題であれば――とくに牧畜民の研究に優れた研究成果を示してきた生態人類学的な背景と相まって――、より自然との関係を想像してしまう。本書では抑制的に示されたそうした背景は今後の展開可能性を予感させる。植民地統治期に関する記述にかぎっていえば、イギリス人行政官側の視点を中心とした「植民地統治史」のオーソドックスな記述である。副題にある「抵抗」の主体であるはずの現地の人々の姿を伺う記述は、本書の向こうに構想されているものであろうか。「日常的抵抗論」に対するあまたある批判の一部を紹介してはいるが、それに対するさらに説得的な論駁もまた今後の課題であろうと推察される。

上記のような数多くの指摘は、本書の議論が、本来の専門分野を異にする選考委員それぞれの学問的な関心を十分にインスパイアするものであったことの証左でもあろう。選考委員会は全員一致で本書を奨励賞にふさわしいと判断した。